大晦日に除夜の鐘を108回撞くことから、人間の煩悩は108個あるとされているのは、ほとんどの方がご存知のことでしょう。
しかし、人間の煩悩がなぜ108個といわれているのか、その理由や本来の意味までご存知の方は少ないのではないでしょうか。
煩悩という言葉は、現代では「煩悩にまみれている」等あまりよくないイメージで使われがちですが、実際にはもっと広い意味を持つ言葉です。
煩悩の意味を知ることでわたしたち人間の幸せや心のあり方について考えるヒントを得ることが出来ます。
煩悩の本来の意味や、煩悩の数が108個とされている由来を詳しく解説します。
煩悩の意味を解説
「煩悩」という言葉は、仏教用語であり、惑(わく)、随眠(ずいみん)とも呼ばれます。
まず、煩悩とはどのような意味を持つ言葉であるかを解説していきます。
煩悩は人の心身を悩ませ悟りを妨げるもの
仏教において、煩悩とは、「心身を悩まし、乱し、煩わせ、汚す心の作用」のことを指し、悟りを妨げ、人間の苦の原因となるものです。
煩悩には、一切の欲望、他者への怒りや憎しみ、仮の実在への執着などといったものがあります。
例えば、お金や地位や恵まれた容姿などは、手に入れることによって幸せになれると多くの人が信じています。
しかし、仏教では「有無同然」という言葉があり、これは私たち人間には、何かを手に入れていないこと(無)に対しての苦しみがある一方で、手に入れたこと(有)によって生じる苦しみもあることを示すものです。
例えばお金が無いと、私たちは自分の望むものが手に入れられなくて苦しいと感るでしょう。一方でお金を手に入れると、今度はそれを失うことを恐れたり、どのように管理していくかに不安を感じたり、また別の苦しみを味わう事になります。
このように、この世を生きる限り、私たちは何かを得たいという欲望によって苦しみ、またその何かを得られた際には、今度はそれを失いたくないという執着によって苦しみます。
こうした心の動きが煩悩と呼ばれ、私たちはこの煩悩にとらわることで、悟りを得ることが難しいのです。こうした悟りを得られない心の状態は「無明(むみょう)」と呼ばれます。
仏教は、私たち人間がこれら煩悩にとらわれることなく、無明から抜け出し悟りを得るための教えとされています。
煩悩は「貪・瞋・痴」の三毒からくる
煩悩は人を苦しめ、悩ませるもので様々な種類がありますが、その中でも特に人間の諸悪・苦しみの根源となる煩悩が3つあるとされ、それらは「三毒(さんどく)」と呼ばれています。
三毒は、貪・瞋・痴(とん・じん・ち)の3つから構成され、それぞれ「貪欲(とんよく)」・「瞋恚(しんに)」・「愚痴(ぐち)」とも呼ばれます。
三毒のそれぞれの意味は下記のとおりです。
- 貪:むさぼり。必要以上に求める心。
- 瞋:怒りの心。憎しみの心。
- 痴:審理に対する無知の心。
また、貪・瞋・痴は、それぞれ動物の鶏・蛇・豚に喩えられることもあります。
煩悩がなくなれば幸せになれるわけではない
人の悩みや苦しみの種になっているのであれば、煩悩はなくなったほうが良いと考えるのは自然なことでしょう。
しかしながら、なにかしらの欲求があり、その欲求が叶えられないことに悩み、叶えようと努力してきたからこそ、人間の技術や社会は発展し私たちの暮らしはより豊かになり、幸福になってきたという側面もあります。
また、大乗仏教の教義では、悟り(菩提)もそれを妨げる迷い(煩悩)も、ともに人間の本性の働きであり、煩悩があるからこそ人は悟り(菩提)を求めようとする心が生まれるので、煩悩と菩提は別の物ではないという考え方があります。この考え方は「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」と呼ばれています。
言い換えれば、煩悩を縁として、私たちは悟りに近づくことが出来るのです。
煩悩は人間の本性の働きであり、なくせば幸せになれるわけではなく、むしろ煩悩をなくそうとすることによってまたひとつの執着を生み、苦しみを生むことにもなり得ます。
煩悩をなくそうとするよりも、煩悩にとらわれすぎないように自分の心を見つめなおすことで、より私たちは幸せに気付くことが出来るのではないでしょうか。
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