浄土真宗は西と東で違う?真宗大谷派と本願寺派で別れた歴史と違いを解説

浄土真宗は西と東で違う?真宗大谷派と本願寺派で別れた歴史と違いを解説

浄土真宗は日本で最も信仰者が多い仏教の宗派ですが、西と東で真宗大谷派と本願寺派に別れています。

西と東で浄土真宗が別れてしまった理由は、戦国時代における歴史的背景にありました。

浄土真宗が西と東で別れた歴史と、真宗大谷派と本願寺派の違いについてわかりやすく解説します。

浄土真宗が真宗大谷派と本願寺派で別れた歴史を解説

浄土真宗はもともと浄土宗から派生したひとつの宗派でした。しかし、真宗大谷派と本願寺派で東西に別れてしまい、現在では10の流派に分かれています。

ではなぜ浄土真宗は真宗大谷派と本願寺派で別れてしまったのか、現在の関係も交えて解説します。

浄土真宗は誰もが極楽浄土へ行けると考えられている宗派

浄土真宗は約850年前に親鸞聖人(しんらんしょうにん)によって開かれました。

浄土真宗には「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」という教えがあります。

現代語訳すると「生前によい行いをした善人は極楽浄土へ行ける。それくらいだから悪人ならなおさら極楽浄土へ行ける」です。

要するに生前の行いに関係なく、誰もが極楽浄土へ行けるということですが、浄土真宗では「悪人こそ行ける」と教えられるのです。

しかし、浄土真宗の教えが指している「悪人」とは、ただ悪い行いをした人を指しているわけではありません。

悪い行いをした自覚を持っていながらも、仏にすがって極楽浄土へ行けるように願っている人のことを指しています。

つまり、「善行をしたから極楽浄土へ行けると自信を持っているために仏にすがる気持ちがない善人よりも、仏にすがる気持ちが強い悪人の方が極楽浄土へ行ける。だから一心に仏にすがりなさい。」という教えです。

一般的には善人だけが極楽浄土へ行けて、悪人は地獄に落ちると考えられています。

多くの人は動物を殺生してその肉を食べて生きているので、極端に言えばそれだけでも十分に悪人であるとも言えるでしょう。

悪人は地獄に落ちるという考えは、多くの人に絶望を与えてしまいました。

そこで親鸞聖人が開いた浄土真宗では、全ての人々を平等に救う阿弥陀如来を本尊とし、仏にすがることで極楽浄土へ行けると説いたのです、

悪人でも悪行を自覚して仏にすがれば極楽浄土へ行ける。仏にすがれば誰でも平等に極楽浄土へ導かれ仏になれる。

浄土真宗の全ての人を平等に見る教えは、身分に関係なく多くの人に受け入れられ、現在では日本で最も信仰者が多い宗派になりました。

浄土真宗が別れたきっかけは織田信長との和睦

浄土真宗の本願寺は500年前の戦国時代までひとつでした。

しかし織田信長が石山本願寺(大阪城の場所)を攻めた石山戦争をきっかけに、本願寺はふたつに分断されます。

当時の石山本願寺は、浄土真宗を再興した蓮如によって室町時代に建てられた一大拠点であり、難攻不落の砦として織田信長による10年以上の攻撃にも耐えたことで知られています。

結局織田信長は、石山本願寺を降伏させることはできませんでしたが、織田信長は天下統一が足止めされることを嫌っていたため、正親町天皇を間に入れて浄土真宗に和睦を求めました。

そして本願寺内では、織田信長との和睦を受け入れる賛成派と、徹底的に戦う反対派に議論が別れ、派閥ができてしまいました。

和睦の賛成派と反対派に別れたことが、浄土真宗が西と東で別れるきっかけです。

当時、石山本願寺は顕如がトップに立っており、三男の准如とともに和睦を主張していました。しかし長男の教如は織田信長との徹底抗戦を主張し、激しい対立が起きていたのです。

最終的に和睦が決定したため、石山本願寺は織田信長に明け渡し、顕如は三男の准如とともに和歌山県の鷺森別院に移転しました。

最終的に徳川家康が教如に東本願寺を作って宗派が別れた

織田信長と浄土真宗の争いは落ち着いたように思われましたが、火種はまだ残ったままでした。

火種を消すために明智光秀に本願寺への攻撃を命じましたが、明智光秀は「敵は本願寺にあらず、本能寺にあり」と言って、本能寺の織田信長を討ちました。

これが有名な「本能寺の変」です。本能寺の変が起きた結果、浄土真宗は攻撃されることなく、滅亡の危機から免れました。

しかし、顕如と教如の親子の溝は深いまま・・・。

顕如は浄土真宗のトップの座を溝が埋まらない長男の教如ではなく、和睦賛成派としてついていた三男の准如に譲ってしまったのです。

その結果、ますます教如との溝は深くなったうえに、教如は顕如の判断に納得できていませんでした。

当時、時代のトップは徳川家康でしたが、徳川家康にとっても浄土真宗は面倒な存在でした。

そこで徳川家康は、浄土真宗を分断させて勢力を弱めようと、不満を持っている教如に寺地を与え、東本願寺を建てさせたのです。

こうして本願寺は西と東に別れ、敵対関係となってしまいました。

現在は真宗大谷派も本願寺派もいい関係になっている

西の本願寺派と東の真宗大谷派とふたつに別れた浄土真宗の争いはますます加速し、徳川家康の目論見通り、お互いの力はどんどん減少していきました。

そのため、江戸時代初期の浄土真宗は東西で非常に仲が悪かったようです。

しかし江戸時代後期になると対立は徐々に弱まっていき、内容次第で共同歩調をとることも増えていきました。

明治時代に入ると江戸時代初期の確執も薄れていき、第二次世界大戦後からはいい関係が築けるようになっていました。

現在では浄土真宗の10派で真宗教団連合を組織しており、盛んに交流が行われています。

ただしあからさまな敵対はないものの、東本願寺はお参りするけど西本願寺には行かないなどの潜在的な対抗心を持っている門徒はいるようです。

敵対していた時代はとっくの昔に終わっているはずですが、心情的な違和感はまだ存在しているのかもしれません。

浄土真宗の真宗大谷派と本願寺派の違いを解説

浄土真宗の真宗大谷派と本願寺派の違いを解説

浄土真宗の真宗大谷派と本願寺派の違いはほとんどありませんが、細かな部分に違いがあります。

真宗大谷派と本願寺派の違いについて解説します。

お経は同じだがイントネーションや読み方に違いがある

浄土真宗では「正信偈(しょうしんげ)」というお経を最も重視しています。

正信偈は仏教の開祖である釈迦如来が唱えた本来の意味でのお経ではなく、浄土真宗の教祖である親鸞聖人によって書かれたものです。

浄土真宗にとって最も重要なお経であり、東西に違いはありません。

ただし、読み上げるときのイントネーションや文字の読み方に若干の違いがあります。

例えば「南無阿弥陀仏」を本願寺派は「なもあみだぶつ」、真宗大谷派は「なむあみだぶつ」と読むなどの細かな違いです。

数珠の持ち方や焼香の回数が違う

真宗大谷派と本願寺派では、葬儀などで行う焼香の回数も違います。

  • 真宗大谷派:2回
  • 本願寺派:1回

また、お参りの際に使用する数珠の持ち方も真宗大谷派と本願寺派で違います。

  • 真宗大谷派:房を上にして合掌した両手に二重に巻いて、左手の側に房を垂らす。
  • 本願寺派:合唱した両手に二重に巻いて、房を小指の下に垂らす。

なお、数珠の持ち方が違うのは女性のみであり、男性に持ち方の違いはありません。

仏壇は宮殿のデザインが違う

浄土真宗の正式な仏壇は、漆塗りや金箔押しが施されており、錺金具などで仕上げられた「金仏壇」です。

ただし真宗大谷派と本願寺派で、本尊を安置する「宮殿(くうでん)」のデザインに違いがあります。

宮殿はお寺にある宮殿をほぼそのまま縮小したデザインになっているため、お寺が違うと仏壇の宮殿のデザインも変わります。

具体的な仏壇の違いは以下の通りです。

  • 真宗大谷派:黒い漆塗りが多い二重瓦屋根で、黒い漆塗りの柱に金色の錺金具、が施されている。
  • 本願寺派:大部分が金箔の一重杮葺き屋根で、金箔押しの柱の上に金色の錺金具が施されている。

もともとはひとつの宗派だったため、大きな違いはほとんどありませんが、仏壇のデザインの違いは、真宗大谷派か本願寺派か最も明確にわかる部分だと言えるでしょう。

浄土真宗は対立によって別れたが誰もを受け入れる大きな宗派

浄土真宗は親子の対立によって西と東で別れ、長い間敵対関係にありました。しかし、もともとはひとつの宗派だったので、現在では敵対することなくいい関係を築いています。

もちろん、潜在的に敵対心や違和感が残っている人もいますが、本尊である阿弥陀如来はすがる全ての人を平等に極楽浄土へ導いてくれる仏です。

敵対していた過去はありますが、身分に関係なく善人も悪人も全ての人を受け入れてくれる大きな宗派であることには変わりません。

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