家族を看取り、葬儀を終えて納骨が済む頃。
「あの人はもうこの世にいないんだな…」
そう思うと同時に孤独感や罪の意識に苦しむことがあります。
「こうすればよかったのかな。」
「あれがいけなったのな。」
「どうしてこうしてあげられなかったのだろう。」
過去を思い出し、と自分を責めてしまうこともあるでしょう。反省をすることは決して悪くありません。しかし、反省が強過ぎると悲しみから立ち直れなくなってしまいます。
大切な人を亡くした時、多くの人が悩み苦しみます。同じ気持ちの人はたくさんいるのです。
多くの残された家族が思い悩むことを紹介します。
■QOL家族との最期のむかえ方 もくじ
- 家族を看取るということ|QOLの考え方
- 家族が余命宣告をされたとき1|心の変化を見つめる
- 家族が余命宣告をされたとき2|具体的に何ができるか
- 危篤状態だと言われたとき|家族にできること
- 家族を看取るときが来たら|最期のときとその後の流れを解説
- 多くの残された家族が思い悩むこと|後悔ではなく希望へ
後悔をしない看取りはないのかもしれません
検索エンジンで「看取り 後悔」と調べると、後悔しない看取りをするための方法や遺族の体験談などたくさんのサイトが見つかります。
後悔しない看取りをしたいと誰もが思いますが、そもそも「悔いのない看取り」はあり得るのでしょうか?
例えば、大切な人が「がん」で亡くなったとしましょう。それまでには受診のタイミング、治療方法の選択、残された日々の過ごし方、最期のときの迎え方、多くの選択がありました。それらが全て最善であったかは誰にも分かりません。本人と家族の関りを考えると、最期への道のりは限りなく無限になります。
選ぶということは他の選択肢を捨ててきたということ。
「あの時こうしれていれば・・・」と別の道を想像するのはいくらでもできます。
しかし、何が正しかったかなんて誰にも分からないものなのです。
後悔をしているとき 自分の不甲斐なさを責めている
「もっと早く病院に行くように言えばよかった。」
「もっと病気について調べるべきだった。」
「遠くても有名な先生のいる病院に連れて行けばよかった。」
病気や治療に関して、自分はもっと「なにか」できたのではないかと思う人は多いです。
「もっと面会に行けばよかった。」
「優しい言葉をかけてあげたかった。」
「もっとありがとうと言えばよかった。」
本人との関わりを反省する人もいるでしょう。
この後悔はもちろん故人を想ってのことですが、実は「もっと頑張れたのではないか。」と自分自身の不甲斐なさを責めているのです。
しかし、本当にそうでしょうか?もっと頑張れたのでしょうか。
確かに、一つひとつの出来事に対し、よりよい行動はできたかもしれません。しかし生活の中で、残された人それぞれに事情もあったはずです。仕事や家庭の役割、自分の体調。いつもいつも全力投球することはできません。
大切な家族のためにその時、できるだけのことをしたのです。死にゆく家族のために、全力を尽くすのが家族です。
たとえ後悔があろうとも、できることをしただけです。
「ああ、あれが私ができることだったのだ」と認めてあげてもいいのではないでしょうか。
本当に後悔すべきことなのか誰にも分からない
残された人にとって後悔すべきことであっても、故人がそれをとがめているとは限りません。
たとえ「心無い一言を口にしてしまった・・・」と思っていても、故人がそれを気にしていたのかは、もう聞くことはできずわからないのです。
「死後の世界」は誰も知りませんが、「もし自分だったら・・・」と考えてみてください。
自分が死んで家族が後悔をしていたらどうでしょうか?
「もういいんだよ」と思うのではないでしょうか。
祖母の死に対する父の後悔
葬儀のデスク編集部スタッフの祖母は老衰で亡くなりました。88歳、大往生です。
亡くなる2年前から認知症が進行し、在宅介護が困難な状態になし、老人ホームに入所しました。ある時風邪をこじらせて入院し、1カ月ほどで危篤状態に。家族に囲まれた最期で、祖母は穏やかな顔をしていました。
父は肩を落として泣いていましたが、葬儀では気丈に振舞っていました。老人ホームに入所する頃から祖母の最期はそれほど遠くないと、家族は理解していました。
父なりに祖母の死を受け入れたのだと思っていましたが、それからしばらくして、父の苦しみを知りました。
お茶をしながら、何気なく祖母の話をしていたときのこと。
「おばあちゃんのおにぎりがおいしくてね・・・」
たわいもない話です。すると父はこう言いました。
「ばあちゃんを老人ホームに入れたくなかったんだ。俺が家で介護したかった。あんな風に姥捨て山に捨てるみたいなことして。」
祖母の葬儀でも気丈に振舞っていた父が泣いたのです。
父は祖母を自宅で介護できなかったことを悔やんでいました。老人ホームに入る直前の祖母は認知症が進行し、常に誰かの介護が必要でした。徘徊や危険な行動も見られ、介護サービスをフル活用していたものの、主な介護者である母は限界の状態です。
父は仕事、子供たちは学生。当時父は「仕事を辞めて俺が面倒みる。」と言ったのですが、一家の大黒柱が職を失えば家族は生活できません。他に選択肢がなかったのですが、父がこんなにも後悔していたことをはじめて知りました。
それでも父はできる限りのことをしたと思っています。きっと祖母も父を責めてはいないでしょう。
家族で後悔を分かち合う
後悔はどうしても自分ひとりで抱えがちです。しかし、他の家族にとってはそれは後悔すべきことではなく、仕方がないことやよく頑張ったと思えることかも知れません。
話すことで自分の心の中を整理することもできます。
同じ悲しみを抱える家族だからこそ話せることがあります。自分の中にしまい込まずに、口にしてみましょう。
後悔は明日への力へ(まとめ)
「こうすればよかった」という気持ちは拭い去れないものでしょう。
しかし、後悔があるからこそ「これからはこうしよう」と明日へつなげることができます。
看取りに対し自分はしっかりとできたという満足感だけが残っている人は少ないでしょう。
「なぜ後悔しているのか」
「本当はどうしたかったのか」
ぐるぐると考えるからこそ、苦しいからこそ、見えてくるものがあります。
その結果、自分や誰かを責めるのではなく客観的にとらえることができたら、未来の行動を変える力に繋がるのではないでしょうか。
簡単なことではないかもしれません。しかし、自身に起きたとても重大な出来事を後悔の念で心の中に持ち続けるか、何か意味のあるものとして持ち続けるかは受け取り方次第なのです。
ひとりでは難しい場合は、遺族の心のケアを行っている病院もあります。グリーフケア(悲嘆のケア)を専門とする団体もあります。時間がかかったとしても、後悔は明日への希望になることを忘れないようにしましょう。