鹿児島県は宮崎県とともに仏教寺院が極端に少なく、神式の葬儀が多い地域です。
九州全域は元来、山岳信仰などの民間信仰と仏教が混在する神仏習合の地でしたが、明治時代の神仏分離での廃仏毀釈によって鹿児島県内は7年間にわたって仏教寺院がない状態が続きました。
それは種子島や奄美大島を含む薩南諸島も同様です。
特に奄美群島は沖縄の文化に近いこともあり、独特な葬送習俗を持ちます。
鹿児島県の葬儀の特徴と、その周辺諸島に残る独自の葬儀の慣習を紹介します。
もくじ
鹿児島県の一般的な葬儀
神式の葬儀、神葬祭が多いのが特徴です。そして仏式の葬儀に関しては、僧侶による読経が必要との考えが薄いとの意見もあがっています。
神仏習合の地であった鹿児島県の仏教寺院は、廃仏毀釈以前は天台宗や真言宗が多くありましたが、仏教徒の内訳は多くが浄土真宗という特殊な地域です。
そのため、茶碗割りといった慣習は持ち込まれず、臨終と同時に即往生であるため故人に引導を渡す儀式もありません。
鹿児島市内では少なくなりましたが、葬儀儀礼として、香典とは別にお淋し見舞い(通夜見舞い)に3,000円ほどを包みます。
出棺前に、遺族と親族のみで出立ち膳(別れ飯)をいただく事がありますが、一部地域では参列者全員に振る舞われます。
お寺との結びつきは弱いものの繰上げ法要または引き寄せ霊祭は少なく、仏事・神事、そしてお墓参りはしっかりおこなう家が多いのも特徴です。
葬送方法は神葬祭が多い
鹿児島県は山岳信仰からの民俗神道と修験道が盛んな地域であったため、現在も出雲大社を擁する島根県と同じく圧倒的に神道が強い地域であります。
平安時代以降、神仏習合の文化を持っていましたが明治時代の神仏分離政策に乗じた島津藩による徹底的な廃仏毀釈によってすべての寺院が排除されました。
しかし信教の自由が憲法で保障されると、すぐさま浄土真宗が布教活動を再開、現在も県内および周辺諸島に多くの信徒を抱えています。
それでも、鹿児島県での葬儀は依然として神道の神葬祭が多いのは、人々の生活の中に民俗神道が根ざしているからと言えるでしょう。
周辺諸島では、琉球や中国、地元に伝わる民俗神道が今も色濃く残っています。
ちなみに、浄土真宗が禁止されていた間も、隠れ念仏として多くの人々が信仰し続けていました。枕経・埋葬などの大切な儀式の際には念仏講が僧侶に変わって念仏を唱えていたという歴史があり、現在でも念仏講は多くの自治会の中にあり、葬儀の際は念仏を唱えに訪れることもあります。
神道では香典ではなく玉串料
神式の葬儀を神葬祭と言います。そして香典にあたるのは、「御玉串料」と呼ばれるものです。
※香典袋の表書き
御玉串料(おんたまぐしりょう)/御霊前(みたまえ)/御榊料(おさかきりょう)/御神饌料(ごしんせんりょう)/御供物料(おくもつりょう)
水引は結び切りの黒白または双銀は使用し、蓮の絵柄入りはNGです。
屋根付きのお墓|鹿児島県の集落墓地(共同墓地)
一般的な公営・民営の霊園墓地もありますが、鹿児島県には昔ながらの集落墓地が各地に多く残っています。
集落墓地は町や村の中の地域コミュニティ内にある共同墓地です。屋根付きのお堂の中にお墓があります。
桜島の火山灰はほぼ県内全域に届くため、火山灰から守るために屋根がつけられたといわれています。トタン屋根から見栄えを考えた豪華な造りのものまで、デザインは豊富です。
鹿児島の人はお墓にお金をかける傾向が強いのも特徴で、墓石は大名型・蓮華台型・神道型、大きく豪華な造りのものが好まれています。
一族の沽券にかかわるとして、お墓の手入れとお墓参りは頻繁におこなわれており、それは鹿児島県の切り花の消費量が国内一という事実からも窺い知れます。
鹿児島県の群島地域の葬送儀礼
葬祭業者が介在する葬儀では仏式でおこなわれる事が多いですが、通夜や埋葬時、その後の法要には地元の民俗宗教が強く反映されています。
種子島は鹿児島南部と文化風習を共有しますが、奄美大島・徳之島、そして与論島などの奄美群島は琉球文化が残っており、供物・精進落としに豚肉がだされることも。
また、49個の枕団子など仏教の慣習を葬儀に見られる地域もあります。
最近まで土葬がおこなわれており、明治時代に禁止されるまで、沖縄と同じく風葬と洗骨が主流でした。しかし、現在は与論島にしか洗骨の習俗は残っていません。
奄美大島の大島郡笠利町にある、風葬と洗骨のための横穴式の墓が集まる城間トフル墓群で、在りし日の祭祀を窺い知る事ができます。
トフルは沖縄の亀甲墓の前身といわれ、風葬は東南アジアなどにも見られる、民俗信仰における葬送です。
いわゆる村社会、地域の祭祀を中心として生活と価値観をともにする地域コミュニティ、「シマ」が町や市の基盤となっています。
葬儀の際はシマをあげて手伝いがおこなわれます。他のシマで、喪家の親戚と親しくしている人がいれば手伝いに加わりますが、基本的には親戚と喪家が属するシマの人たちだけでおこないます。
奄美大島の市街地では移住者が多いことでシマの存在は薄く、葬儀儀礼も外部式で家族葬が多いです。
琉球文化圏である奄美群島の葬儀
奄美群島には、沖縄県と同じく、父系社会の象徴の門中(もんちゅう)と古来の母系社会の習わしが混在しています。
棺に茶葉を納める慣習がありますが、これは沖縄県広域、香川県でも一部地域にみられるもの。茶葉を納棺する習わしは、古くは中国の葬儀の慣習で見られることから仏教とともに伝わったと考えられています。
奄美大島・喜界島・与論島なども沖縄同様、かつては風葬と土葬の文化を持ち、葬儀は自宅もしくは公民館で執り行われていました。
現在では、都市部では葬祭業者に任せることが多く、郊外では葬儀専用の会場を借りて通夜・告別式をおこなうこともあります。
また、奄美大島は他諸島と同じく檀家制度がなかった事で仏教寺院との結びつきが薄く、宗教宗派にこだわらない人が圧倒的に多いのも特徴です。葬儀で僧侶抜き、読経はカセットテープの場合も多々あります。代わりにシマの念仏講やユタによる拝みがおこなわれることもあります。
葬儀の費用は抑え、お墓にお金をつぎ込んで立派なものを建てる傾向が強いです。
奄美大島の一般的な葬送儀礼
奄美大島の一般的な葬儀儀礼は、「通夜ー火葬ー告別式ー納骨」です。
※昔からのシマでは前火葬が多い
特徴的なものを以下にまとめました。
- 自宅で亡くなった場合、すぐに家の時計を止める
- 棺におにぎりと小銭を一緒に入れる
- 出棺前に火がつけられた松明を縁側から外に投げ捨てる
※死者を自宅に迎え入れる時は玄関から、出棺は玄関以外 - 出棺後に茶碗を破る/門口に箒を逆さまに立ておく
- 即日納骨
- 奄美新聞・南海日日新聞の2社に死亡広告掲載、葬儀終了後はその旨広告を載せる
- 香典は1,000円〜3,000円(シマごとに決められている。外部の人は別)
- スタンドの花輪が多く並ぶ/その中のひとつは49日まで残す
市街地では後火葬の一般的な葬儀、特に家族葬が多いです。
与論島の洗骨の風習
与論島に火葬場ができたのは2003年で、それ以前は最寄りの島で火葬しての骨葬、または土葬で弔っていました。
現在もおこなわれている洗骨は、島内に火葬場ができる以前に土葬にされた方のものです。
死者を弔う葬送歌|徳之島
シマ(集落)によっては、出棺前に年長の女性が揃って故人にクヤと呼ばれる別れの歌を歌います。かつては葬儀の間中、女性たちによって歌われ続けていました。
クヤはお悔やみとの意味であり、女性によって代々受け継がれており、シマウタとして現在も若い世代にも継承されています。徳之島は弔いの歌を多く持っているもの特徴です。
※シマウタは奄美大島の文化で葬送歌。口頭伝承で、即興でうたわれるのが特徴で、沖縄のラ(A)抜き音階ではなく本土の民謡と同じ。
まとめ〜鹿児島県に神葬祭が多いのは島津藩が神道の国教化をはかろうとしたから
島津家の菩提寺までも破壊し、県内に1000件以上あった寺院を全廃させた島津久光公。それに至る3つの理由があります。
- 斉彬公が国学を藩学に取り入れたことで久光公自身が傾倒
- 江戸時代より藩内で禁教令を出していたにもかかわらず隠れ念仏として存在し続けていた一向宗(真宗)の一掃
- 仏教寺院が持つ資材と資金を没収して藩の財政の立て直しと軍備増強
特に国学の影響を多大に受けた若き藩士たちの尊王倒幕運動に、庶民もその熱気に感化されていた節が見られ、過激な廃仏毀釈がスムーズに進められたとみられています。
そのため鹿児島県では神道が多く、今なお神葬祭が多く執り行われているのです。