さいたま市、戸田市・川口市など埼玉県南部地域は東京都と接していることで、葬儀は家族葬など簡素化が進んでいます。
しかし、秩父地方などでは昔ながらの隣組が地域に根ざしており、葬儀の手伝い、葬儀後の念仏、そして隣組一同による花輪が送られることも。葬儀前に火葬がおこなわれるのも秩父地方の特徴です。
新旧の葬送スタイルを併せ持つ、埼玉県の葬儀の慣習と秩父地方に見られる独特な葬送習俗を紹介します。
もくじ
埼玉県の一般的な葬儀
埼玉県を大きく二つに分けると、東京圏の文化・経済を持つさいたま市などの東南部地域と、山地と盆地を併せ持つ農業と昔ながらの祭りを継承する秩父地方と北部に分けられます。
埼玉県では主に後火葬が主流ですが、秩父地方の一部地域では今なお前火葬が主流の地域も。
埼玉県も葬送の習俗を紹介します。
入間市など、香典は新生活運動を推奨
群馬県など北関東で見られる新生活運動は、冠婚葬祭が生活の負担とならないように簡素化をすすめるものです。
そこで新生活運動を推奨している自治体では、香典返し不要と必要最小限の香典代を提案しています。
- 入間市:3,000円
- 本庄市・北足立郡伊奈町:2,000円
専用の香典袋には、新生活運動であることと香典返し不要の文言が入った新生活運動シールが貼られおり、シールは自治体のHPからデータをダウンロードできます。
前火葬で弔う秩父地方の独特な葬送習俗
秩父市や比企郡の一部地域は、前火葬で弔います。
武甲山のお膝元、横瀬町の葬儀は参列者の男性全員が額に三角形の布「天冠」をつけ、女性は頭に白い麻糸を撚ったもの、左肩に「イロ」と呼ばれる白い着物を置き、先端に三角形の白い紙を挟んだ金剛杖を片手に参列するのがマナーです。
お見舞いは紅白の水引
故人が病気で亡くなった時に、香典とは別に渡されるのがお見舞いです。
生前にお見舞いができなかったという理由で渡すもので、現金を包む袋は、のし無し・結び切りの紅白の水引を用います。
花籠の名残り?香典にキャラメル
土葬時代、野辺送りには「花籠」と呼ばれる中に色紙を細かく切った物をいれた籠に竹竿をつけて、花籠を振りながら練り歩きました。振りまかれた色紙は花びらを表現しています。
お釈迦様が荼毘に伏せられる前に城門をくぐった途端、天から花が雨の如く降り注いだとの謂れではないかという説もありますが、青森では桜の花びらだという説も。
秩父地方では裕福な家が、花籠の中に小銭を入れたことから「銭籠」とも呼ばれおり、銭籠は葬儀に参列してくれた人々への御礼であり、長寿を全うした人の葬列に用いられた事から縁起物としても喜ばれていました。銭籠の小銭はすぐ使うのが良いとされていたので、子供達はすぐさま駄菓子屋へ駆け込んでいたそうです。
この習わしは現在、長寿銭としていつくかの地域で残っています。お金の代わりに、キャラメル1箱などお菓子を入れる地域もあります。
愛知県名古屋市や福井県に今も残る婚礼の際のお菓子撒きも、かつてはお金を撒いていた事がありました。
甘いものが高級品であった時代にお菓子に取って代わった経緯があるため、秩父地方の香典返しのキャラメルもそれに近い意味があるのかもしれません。
精進落としは葬儀後の寺送りをしてから
他地域では葬儀が終わった後にお斎(精進落とし)をいただきますが、秩父地方では菩提寺を持つ家が、寺送りと呼ばれる儀礼をまず済ませなければなりません。
寺送りとは、菩提寺の御本尊と先祖代々に、新しく仏となった故人の紹介と挨拶をおこなうことです。親族が6人ほどで寺院をたずねます。
本堂と位牌堂でそれぞれ読経がおこなわれたあと、お茶をいただきながら僧侶の法話を聞きます。その後、喪家もしくは葬儀会場へ戻ってお斎をいただくのが一般的な流れです。
地域によっては昔ながらの慣習で、さらしで作った三角袋に米を一升入れて寺院に寄進しますが、用意できなかった場合は現金を納めます。
かつて寺院に米を寄進していた名残の、大分県の敷米料や鳥取や関東地方に見られる一俵香典に似ています。
秩父市久那に伝わる奇祭・ジャランポン祭り
関東地方で葬儀のことを子供言葉で「ジャンボン」、または「ジャランポン」と言います。江戸時代に生まれた言葉という説が有力です。ジャランポンは葬列の際の僧侶たちによる鳴り物、鐃祓(にょうはつ)や太鼓などの音をそのまま言葉にしたもの。
秩父市の諏訪神社の春の例大祭の中の宵宮祭であるジャランポン祭(葬式祭)は、その名の通り生者が葬式をおこなうお祭りで、3月15日に近い日曜日に開催されます。
起源は不明ですが、かつてこの地域に疫病が流行った時に諏訪神社に人身御供を捧げたことがはじまりではないかという説が有力です。
江戸時代末期まで、ここには宗源寺という仏教寺院がありました。葬式祭はこの寺院で始まり、最後に諏訪神社に死者を送り届けるというのが本来の形式でしたが、明治時代の廃仏毀釈によって宗源寺は廃寺。その後現在に至るまで、諏訪神社がすべてを引き継いでいます。
現在はお寺の代わりに下久那公会堂で宴会が行われます。
棺に見立てられた、結界が張られた小さな棺が置かれ、死装束、額に三角形の天冠をつけた死者役がその前に横たわり、会場にいる人々から弔われます。
死者役の人は、一年の間、その地域で最も不幸だった人が選ばれるというブラック・ユーモアの側面も持ちますが、ジャランポン祭には死人から復活を遂げるという厄落としの意味もあり、選ばれることは光栄なことです。
また面白いのが、死者役の人は首から頭陀袋をぶら下げて来場者に三途の川の渡り賃をねだり歩くさま。一周したら大正僧役の人に見せにゆきますが、少ないとまたもう一周させられることも。
この祭りに参加している僧侶も、すべて住民が演じます。
そして祭りもたけなわを迎える頃、死者役は棺に入り、鐃祓と太鼓が賑やかに鳴り響く中、大僧正役の人が読経を始めます。そして空の棺をみんなで担いで隣の諏訪神社へと向かい、神社についたら再び死者が中に入ります。
程よく酔いが回った大僧正の怪しげな読経、それが終わると棺の中から死者が万歳の掛け声とともに立ち上がり、この世に蘇ります。
お祭りの最後は秩父締め(タンタンタン・タタタンタン)です。
注連縄で結界がはられた棺に仏式の装具と葬送儀礼から、かつて諏訪神社が神仏習合であったことが伺えます。
秩父地方では地域の人々の結びつきが強いことから、ジャランポン祭りを始め秩父神社の川瀬祭りなど今も古式ゆかしく受け継がれているのです。
まとめ〜埼玉県秩父市には昔ながらの葬送習俗を受け継ぐ地域が残っている
埼玉県でも東京圏であるさいたま市などでは、東京圏からの人の流入などでその土地の風習も変わりつつあります。
一方で、秩父地方や山沿いの地域のように町内の組などで世代交代がうまくいっている限り、地元に伝わる祭りや葬送儀礼がなくなることはないでしょう。